ジャーナリスト論でライブドアやってるわ


5月8日付けのホエリエモン率いるライブドアのパブリックニュース(PJニュース)が客観報道の是非について問題提起をしている。主観はあって当然と思うし、事実を曲げて中立仕立てに書く日本のマスコミの論調に対し断固戦ってほしい。主観のないニュースばかりじゃ、大手新聞社の記者は面白くないだろう。

『言論江湖』ジャーナリストの独立性をめぐって
【PJニュース 05月08日】−PJニュースで〈誰かが殺した〉という記事を連載している。自殺か他殺かといった父親の死因や、警察の捜索に不備が無かったかどうかをめぐり、県と国を相手取り法廷で争っている記者本人が、警察の捜索法や裁判の経緯についてつづったものだ。この記事に関して、さまざまな議論が巻き起こっている。

客観報道は努力目標
 もっとも多い批判は、この記事が中立性もしくは客観性を欠いている、というものだ。PJニュースは、ジャーナリズムの中立性や客観性を絶対視していない。相反する事柄について事実を追及する際に、ジャーナリストが中立的な態度を維持することは妥当だろうか。もしくは、その中立的態度がジャーナリストの無責任に変質しないのだろうか。

 また、取材編集過程でジャーナリストの主観が入り込むことは自明である。いわゆる客観報道とは努力目標であって、絶対価値ではない。そもそも、日本国内のマスメディアが持つ中立性や客観性という概念は、ジャーナリズムの理念から生じたものではなかった。逆に、明治後期の政府の言論弾圧に屈した形で、マスメディアの生き残り策として編み出された側面が強かった。欧米の速報重視から生まれた客観主義とは別ものである。

ジャーナリズムで、中立と独立は異なる概念
 もう一つの批判が、ジャーナリストの独立性についてである。これは十分議論しなければならない。「中立」と「独立」は異なる。連載記事について、PJの渡辺直子さんにジャーナリストとしての独立性は無い。ゆえに、原稿を掲載すべきではない、という声がある。確かに、ジャーナリストは中立的な立場である必要は無いが、独立した立場で取材報道しなければならない。

 しかし、この事件の全体像を見渡すと、ジャーナリストの独立性よりも大切な、ジャーナリズムの価値があるのではないか。もし、渡辺さんの父親、省三さんの死因をめぐり、警察のずさんな捜査によって、他殺が自殺だとだと断定されたのであれば、市民が安全で安心して生活できる社会など望めない。これは公共性のある重要な問題だ。誰かが報道しなければならない。

ジャーナリストの独立性を超越させるジャーナリズムの価値はあるのか
 では、誰がこの事件を報道すれば良いのだろうか。第三者が、渡辺さんと事件の関係者を取材して記事を書くことが最善策であったろう。そうすれば、別の見方や結果が生まれたかもしれない。実際、マスメディアがこの事件を記事化した。ただ、十分な内容でなかったというのが渡辺さんの感想だ。マスメディアにはマスメディアなりのニュース判断がある。相対的に渡辺さんの件はニュース価値が低かったのであろう。ついでながら、この価値判断はマスメディアの主観である。

 市民が思い悩んでいる公共性ある理不尽を、他にどのような手段を使って伝えれば良いのだろうか。その解決手段がパブリック・ジャーナリズムである。当事者が報じれば、報道というよりは手記というべきものであり、誹謗中傷もあろう。だが、泣き寝入りするよりもましだ、というのが渡辺さんの意思だ。これを尊重したい。

声無き市民の声を支えるのがパブリック・ジャーナリズム
 声無き市民の声を支えるのがパブリック・ジャーナリズムの本質である。また、一般市民の視線で、警察などの国家権力が「本当にちゃんと機能しているのか」と監視することも、パブリック・ジャーナリズムの目的でもある。こうした視座にあれば、渡辺さんにジャーナリストの独立性が欠けていたとしても、この事件を渡辺さん自身が報道することは許されるべきなのではないだろうか。

 筆者は渡辺さんからこの事件の内容について細かく話を聞いた。そして、筆者は渡辺さんがこの事件を伝えなければならないという動機についても納得した。そこで、渡辺さんには、相手側の言い分を過不足なく記事に盛り込み、感情的な面は排除すること守ったうえで、記事にすることを約束してもらった。この信頼関係の上に、<誰かが殺した>を連載する判断を筆者がしたのだ。浅はかかもしれないが、筆者はこれが正しいと信じている。【了】


パブリック・ジャーナリスト 小田 光康【東京都】
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